あなたも外交官「外国人との異文化交流の秘訣 アジアの言語・文化・社会編」イスラム教について

このシリーズは私の外務省勤務を通じて得られた知識と経験に基づき、出来る限り正確な情報をお伝えすべく努力して書いたものですが、誤りがありましたらご容赦ください。言うまでもなく外務省の立場を述べたものではなく、あくまで個人的な見解です。

リンガハウス理事長
岩谷  滋雄

(東京外国語大学オープンアカデミー教養講座講師、元駐オーストリア大使、元日中韓三国協力事務局・事務局長)

 

アジアの言語・文化・社会編

イスラム教について

世界3大宗教と言うと、キリスト教、イスラム教、仏教があげられるが、かつて日本人にとってキリスト教は欧米文化の一部としてなじみがあったのに対し、イスラム教は縁遠い存在であった。最近、マレーシア人やインドネシア人を始め日本を訪問するムスリムの数が増え、パキスタンなど南アジア系を中心に日本に居住するムスリムも多くなった。日本人もイスラム教についてある程度の知識を持っていることが不可欠な時代になってきたと言えよう。ここで、イスラム教について少し調べてみたことをまとめておく。

 

1. イスラム教とは

「キリスト教、ユダヤ教と同じく、イスラム教も旧約聖書とそこに記されている唯一神を信じています。この唯一神をアラブ語では「アッラー」といいます。

イスラム教の開祖は、570年にメッカで生まれたムハンマドです。ムハンマドは、裕福な未亡人が経営する交易会社で働いていましたが、その働きぶりを買われて、経営者である未亡人と結婚することになりました。

暮らしにゆとりが生まれたムハンマドはしばしば瞑想にふけるようになり、やがて40歳のときにみ使いガブリエルを通して神の啓示を受けたとされ、その後伝道活動に入りました。それから63歳で病没するまでの23年間の間に受けた「神の啓示」を書いたものがコーランです。

コーランには、アッラー以外に神はいないということと、この信仰にあずかる者が、それをどのように表明すべきかについて具体的に述べられています。

イスラム教で最も大切な聖典はコーランで、その次がムハンマドの言行録であるハディースです。他に、コーランを正しく理解するためのものとして旧約聖書全体と、新約聖書の福音書も教典として認められています。」 (いのちのことば社)

コーランはアラビア語で書かれたもののみが聖典であり、他の言語に訳されたものは解説書と見なされる。また、イスラム教徒になるためには、二人以上のムスリムの前で「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である。」という言葉をアラビア語で唱えればよい(信仰告白・シャハーダ)、という。キリスト教の洗礼に比べればずいぶん簡単な入信の作法ではないか。この信仰告白に加え、信仰を維持するためにしなければならないことは、礼拝(サラー)(1日5回、キブラ(今はメッカの方向)に向かって神に祈ること)、喜捨(ザカート)(収入の一部を困窮者に施すこと)、断食(サウム)(ラマダーン月の日中、飲食や性行為を慎むこと)、巡礼(ハッジ)の4つであるが、これらすべてを順守するのは容易なことではない。

 

2. 生活習慣への規律

イスラム教徒と交流する上で最も注意を要するのは食事制限であろう。ハラール認証という制度があることは日本でも知られるようになってきた。ムスリムにとっての食事に関する制限は、単に豚肉などを食べてはいけない、ということだけではなく、調理法にも制限があり、調理道具・使われる油や調味料も許容されたものでなければならない。そのため製造工程も含めて基準を満たしているかどうかの厳重なチェックが行われ、合格した業者だけにハラール認証が与えられるのである。その基準は宗教的観点のみならず、健康に良いかどうかという観点も含まれている。キリスト教や仏教においてもある程度は日々の生活の仕方についての規制を設けるが、イスラム教ほどに毎日の食事や健康にまで細かく気を配っている宗教はなく、生活環境の厳しい砂漠の民にとっての「生活の知恵」を提供する役割も果たしているのではないかと思う。

また、1日5回メッカに向かって祈りを捧げるための部屋が必要である。その部屋は天井にメッカの方向を示す矢印が付いている。イスラム教国でホテルに泊まった方は天井にそのようなものが付いているのを見かけられたことと思う。最近では日本でも駅等の公共施設でお祈りのための部屋が用意されているのを見かける。

 

3. 偶像礼拝の禁止

さらにもう一つ、イスラム教で特徴的なことは、偶像崇拝が厳しく禁じられていることである。この点はユダヤ教と似ている。イスラム教のモスクにもユダヤ教のシナゴーグにもキリスト教会のような像や宗教画はない。

キリスト教も旧約聖書のモーセの十戒の一つとして偶像崇拝の禁止が謳われているが、ユダヤ教はそれを厳しく遵守しているのに対して、キリスト教では神そのものの像は作らないもののイエス・キリストや聖母マリアの像や絵画を制作してそれを飾ることには問題なく、その前で祈ることも許されている。仏教寺院やキリスト教会を見慣れている我々にはモスクの中は余りにもガランとして宗教的荘厳さを感じることが出来ないが、それは偶像崇拝禁止を厳密に実行しているためである(ただし、産油国などには財力にものを言わせて調度品などに贅を尽くしたとても美しいモスクがある)。

考えて見れば宗教的な彫像や絵画はその宗教の腐敗の入り口にもなり得る。それ自体が聖なるものと見なされ、信仰の対象になってしまう恐れがあるからである。聖なるものは形にしない、というのはそういった腐敗の芽を絶つためであると考えられる。このような違いはあるとしても、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は同じ根っこからスタートして枝分かれした宗教であり、同じ神を信じているし、一神教という点でも共通である。

 

4. 左手は不浄

その他、注意が必要なことは、イスラム教では左手が不浄であると見なされていることである。イスラム教徒に対して左手を差し出してはいけない。また、犬の鼻の頭は穢れていると見なされ、犬はあまり好まれない。インドネシアで泥棒に入られたくなければ犬を飼え、と言われたものである。