あなたも外交官「外国人との異文化交流の秘訣 アジアの言語・文化・社会編」II. インドネシアの文化・社会-1. 戦争の影響

このシリーズは私の外務省勤務を通じて得られた知識と経験に基づき、出来る限り正確な情報をお伝えすべく努力して書いたものですが、誤りがありましたらご容赦ください。言うまでもなく外務省の立場を述べたものではなく、あくまで個人的な見解です。

リンガハウス理事長
岩谷  滋雄

(東京外国語大学オープンアカデミー教養講座講師、元駐オーストリア大使、元日中韓三国協力事務局・事務局長)

アジアの言語・文化・社会編

II. インドネシアの文化・社会

II-1. 戦争の影響

近年東南アジアからの観光客や長期滞在者が増えている。観光客の数から言えばタイ、シンガポール、マレーシア、フィリピンの順に多く、長期滞在者の数ではフィリピンとベトナムの人が多いと言う。日本への関心の高まりやビザの要件が緩和されたこと、所得レベルが上がっていること、看護・介護の分野や技能実習生としての受け入れが進んでいること、などを反映しているとみられる。

新型コロナ感染症の流行のためこのような交流は停止されているが、いずれ訪問者は戻ってくるであろうし、通信手段を通じた交流はコロナ下でより盛んになっている。私が駐在し、東京での仕事でもかかわりが深かったインドネシアについて述べ、東南アジアの文化をご紹介したい。

第2次大戦中日本軍は東南アジアにも侵攻し、強制労働など非人道的な行為も数多く行われたが、今日の東南アジアの人達の間には韓国・中国ほど強い反日感情は残っていないようである。
一つの理由としては当時これらの地域はタイを除いてイギリス・フランス・オランダなどの植民地支配を受けており、日本の進出は単に支配者が変わっただけに過ぎなかったことがあげられよう。日本が戦った相手は植民地の被支配者ではなくその宗主国であった(そのため、インドネシアの旧宗主国オランダでは未だに補償を求める人達が定期的に日本大使館を訪れて抗議活動を行っている)。
また、日本が宗主国となって間もなく敗戦となったので支配した期間は長くはなかった。インドネシアはその後オランダと戦って独立を勝ち取ったが、結果的に言えば、日本が宗主国を排除したことが独立への後押しとなったとみることもできる。インドネシアの独立宣言が行われたのは日本が降伏した1945年8月15日と同日であることは偶然ではないであろう(ちなみに、アフリカ諸国の独立は東南アジアより20年程遅れている)。戦後、日本の高官が東南アジアやインドを訪問すると、日本のお蔭で我々の独立は早まった、として感謝されることがあった。あながちリップサービスだけではなく、本音も含まれていたのではなかろうか。

日本敗戦のあと日本軍兵士の中にはその国の独立戦争に参画し、現地の人と共に戦った人達も少なくなかった。私がインドネシアに勤務した1980年代中頃、インドネシア人と共に独立戦争を戦った元日本兵の多くがなおご存命で、「ヤヤサン会」(正式名:福祉友の会)という団体を作っていた。その後、この人たちの活躍を描いた映画も公開された。

したたかだった第2次大戦中のタイ外交:
戦時中タイは日本と軍事同盟を結び、英米に対して宣戦布告したので日本とは戦わなかった。その後、次第に対日非協力の姿勢に転換し、日本敗戦後はあの対英米宣戦布告は手続き的に問題があり、無効であったと宣言することにより敗戦国として扱われることも免れたのである。
外交の世界では、普通の人間関係であればずるいと非難されるような行為であっても「したたかな外交」として評価されることがある。米国でさえ、第2次大戦中のヤルタ会談においてスターリンに日本の敗戦後は樺太と千島列島をソ連が支配することを認めると述べたが、冷戦が激しくなると「あれはルーズベルト大統領が勝手に言ったことで、米国政府の方針ではなかった」として前言を翻している。

このような経緯が、韓国・中国の場合とは決定的に異なるのである。韓国・中国の場合は古くからの交流があり、その中で日本は一方的に恩恵を受けてきたにもかかわらず、それを仇で返したわけである。その中で台湾の対日感情が良いのは歴史的に台湾と大陸中国との関係が良くなかったことの反映である。

無論、「大東亜共栄圏」という言葉にだまされた、という恨みの念を抱いている人も多く、フィリピンの故マルコス大統領を始め、反日感情・対日警戒感(軍国主義の復活)をむき出しにする人達もいないわけではなかった。インドネシアでは1974年の田中総理訪問の際、日本の経済進出に反発する反日暴動が起きた。このため戦後しばらくの間日本は対東南アジア外交において政治的関与は極力控え、賠償・経済協力を中心に関係強化に努めた。

折しも東南アジアではマラヤ連邦とインドネシアの対立、シンガポールの独立、ベトナム戦争、カンボジアの内戦、といった対立抗争が続き、中国が共産党に同情的なスカルノ大統領の支配するインドネシアと連携してアジア・アフリカ会議を開くというような動きもあり、米国もベトナムに武力で介入した。このような東西冷戦の最前線のような状況にあって米国は劣勢に立たされ、日本に協力を求めて来たのである。日本は東南アジア開発閣僚会議を主催し、インドネシア援助国会議で中心的な役割を果たしたり、南ベトナムへの経済援助を行ったりと、出来る限りの経済支援を行い、そのうちにカンボジアを除いて情勢は安定し、1967年に結成されたASEANの結束が強くなっていく。

1977年の福田ドクトリン(日本は軍事大国にならず、ASEAN各国と「心と心が繋がる関係」を築いていく、との方針)はそのような東南アジアと円滑な関係を築くために打ち出された。

ASEANがEUのような政治共同体として統合できるまでにはまだまだ時間がかかるとしても、もはやASEANのメンバー国の間で戦いが起きることはないであろうと多くの人が信じられるようなレベルまで達したことは、このような戦後の歴史を顧みると実に大きな成果であることが分かる。今日では、上述のような事情もあって日本に対する否定的な感情も薄れ、基本的には「普通の関係」になったと言えるが、それでもなお、少しでも「上から目線」と感じられるような態度をとることは禁物であると私は思う。